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写真撮って、日記書いてます。

ないものは、ない

雨の薔薇

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相変わらずトイレットペーパーが近所で売られていない。あるのは空の棚とむなしい張り紙だけ。「配送状況が整い次第入荷します」。そこになかったらないですね、というのが有名なネット上の台詞だが、実際そんな感じだ。なかったらない。

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テレビで新聞でいくら「在庫あるから落ち着け」と言われたとしても、目の前になかったら不安になるし、買いだめに走りたくなる気持ちも分かる。結果的にそれがますます品不足を引き起こす。マイナスの堂々巡りだ。

一度に無数の店舗で品切れを起こしていたら配送も大変だろう。追いついていないのかもしれない。効率のいいルートを考えて、配送できる荷物の量と発注の量との関係も考えて、ドライバーは誰を充てて…運輸業の人はこの時期大変かもしれない。ゲーム『DEATH STRANDING』を最近プレイしているのだが、プレイしなければそのあたりの苦労も分からなかっただろう。各地の配送センターや拠点をたったひとりでトラックでバイクで、時には徒歩で繋いでいくゲームだ。

【PS4】DEATH STRANDING

【PS4】DEATH STRANDING

  • 発売日: 2019/11/08
  • メディア: Video Game
 

拠点Aから拠点Bまで荷物を運ぶとき、どのように運ぶか、品物の注意事項は何か、どのルートを使うか、歩くのかトラックで運ぶのか…無数の手の中から選んでいく作業をして出発する。現実の配送作業とほぼ同じではないだろうか。

youtu.be

さておき。

ティッシュペーパーはじょじょに店頭に復活してきているが、それでも数は少ないし値段もあがっている。驚いたのはキッチンペーパー類の在庫も復活しないこと。なかなか店頭に並ばない。オイルショックの頃や東日本大震災の時のことと照らし合わせて考えてみると、この騒動もだいたい1ヶ月は続くんじゃないだろうか。日常にある見慣れたものがなくなると不安になるのは気づかなかった。あまり紙を使わない生活、というのも言うのは簡単だけど実行するのは難しい。できることは一日の間に使う量を減らすことくらいだろうか。今更ながら、暮らしを見直している。

アサリのすまし汁作った、のだが

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半額で売られていたアサリを2パック買ってすまし汁を作った。鍋にアサリと白だし、水を入れて火にかけてアサリの口が開ききるまで煮る。白だしはほんの少しでいい。アサリから良い出汁が出るのでそれを頼みにして煮る。もしかしたら少し酒を入れたらよかったかも。ぐつぐつならないように火は弱火。

初めてこういうの作った割りには上手くできたかなあと思うものができたので満足。何よりアサリがたらふく食べられたのがうれしい。こちらは海が近いのになぜか海産物の値段が高くなっていて、魚介類が食卓に上がることがあまりない。どちらかといえば肉類になる。まあ魚は足が早いのもあるけど。

ただ、砂抜きしてますという表示はあまり信用しないほうがいいことも改めて感じた。今回買ったものもその表示があったのに、食べてみたら「じゃり」っときたら残念でならない。噛むごとにじゃりじゃり。ちゃんと砂抜き処理しとけば良かったな、手を抜くんじゃなかったと後悔。

だってほら、こういうの食べながらだとどんどんテンション下がるじゃない。最後は食べなくなっちゃう。しまったなあ、調子乗って2パック分買ってるからたくさんあるんだよ…最後はわたしが責任持って食べたけど、たらふく食べたけど、半分近くじゃりじゃりだったのは残念。

これから旬を迎えるから、できることなら食べる回数を増やしたいと思っている。次は菜の花と一緒にパスタにしてみようかとか、酒蒸しとかバター焼きとかそういうのをしてみようかとか。近隣で潮干狩りやっていれば採ってみたいが、ここでもアレの影響がありそうでイベント自体無くなってそう。だからといって勝手に採ったら怒られるしな。もう少し手軽に入手できる方法ないだろうか。

春が近いらしいが

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休みの日に遠くまで出かけたいなと思っていても、例の新型のこともあり、また使えるお金がそんなにないこともあってフラストレーションが溜まっている。これはいまに始まったことではないが、やはり何かしらの行動が制限されると人間腐るものだと実感する。

今週末は期待していたタミヤのショーケースが大阪で開催されることになっていた。新製品の紹介や、プラモデルのコンテストも行われるようなイベントである。これもまた先週あたりに中止となった。同じく大阪で開催される学会も中止。せっかく休みを入れたのにな。

参加予定していたイベントは軒並み全滅で、もはや家にこもって本を読むかテレビを見るかくらいしかない。テレビはテレビで世界の終末かのようなテンションで話すので見るに耐えない。最近は妻の録画ドラマ再生機となっているので、その番組に興味関心のないわたしはAmazon primeで映画でも見ようかと思う。あとはスマホでゲームをするとか、その程度くらいしかもうない。

世間的にはそんな自粛ムードなのだが、何故か職場は開いていて仕事しろという話だからよくわからない。家で仕事していい、というわけにはいかないらしい。変な話だ。なので職場と家とときどきスーパーを行き来する毎日。つまり平時とそんなに代わり映えがないのである。退屈といえばそうだし、平穏無事といえばそうだ。世間の喧騒は何なんだろうか、やっぱりよくわからない。

そうやってうだうだやってるうちに植物の緑が徐々に濃くなっている。春が近いらしい。おそらくもうすぐ桜が咲くだろう。その頃までには収束してるだろうか、それとも花見の人混みで再発するだろうか。花見してる人とそうでない人との間でトラブルも起きそうだし、いつもよりさらに騒がしい春になるのではないか。おそらくその輪から離れて、淡々とスーパーと家と職場を行き来する自分の姿が目に浮かぶ。そうだ。きっとその騒ぎもまた幻想に過ぎないんだ。

確かなことは、ただ杉が緑になるにつれわたしの鼻から鼻水が出るようになったことだけだ。

ほうれん草の胡麻和えを深夜に作る

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何を考えたか深夜にほうれん草の胡麻和えを作った。材料がシンプルだし簡単に作れて、それでいてお弁当のおかずのひとつにしても、食卓に出しても映えるから重宝するやつだ。ちょうどすりごまが冷蔵庫にあったのもラッキーだった。

深夜になったのは翌朝のお弁当作りの負担を減らすため。とはいえ、さほど時間もかからないし、冷凍庫は急速冷凍機能がついてるので翌朝作ってもすぐに冷ますことができる。夜中頑張らないで翌朝作っても良かった、しかもどうせ今作るのなら大量に作って冷凍しておけば良かったかなと後悔している。

これからの季節は菜の花も出回るから、今度はそっちを和えてもいいかな。苦味と香りが広がって良さそうな気がする。昨日スーパーを歩き回ったけど菜の花は無かった。あれ、売ってるとこ限られてんのかな。駅近くのスーパーはどっさり扱ってたけど。

正直、仕事が変に忙しくなってきて、お弁当に割り振る時間が少なくなってきている。おかず考えるのも何かと面倒。しばらくは大量に作ったストックを充ててお弁当に持っていく生活になると思う。もう少しバリエーションが豊富になれば一番なんだけど。

文章の先生のこと

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文章の先生は誰だったかということをぼんやり考えていて、小学2年生の頃の担任ナカムラ先生のことを思い出した。わたしたち児童が悪さしようものなら、両手パッチン(両方の頬っぺたを先生の両手がパチンとたたく)が飛んでくる先生で今だったら体罰だ的なことを言われそうかもしれないが、30年近く前はそういうのはまだ普通に行われていて、わたしもある意味やんちゃというか後先考えずに行動するような子だったからよく怒られていたのを思い出す。

通っていた小学校は宅習帳なるものがあって、1年生は絵日記を、2年生からは普通の日記と漢字、算数ドリルの問題を書き写して解くページがあり、それをこなすのが宿題だった。で、先生がわたしたちに課したのが、日記を書くときに「「ぼくは」「わたしは」で始めない」、「「きょう」で始めない」「「です、ます」で終わらない」というルールだった。

例えばこういう日記を書くと叱られる。

「きょう、ぼくは、おかあさんと、カレーをつくりました。むずかしかったけど、おいしくできたので、うれしいでした」。

文末の「うれしいでした」は打ち間違いではなく、この表現がなぜか当然のように使われていたのだが、それはまた別の機会に書ければと思う。形容詞+「~でした」、「楽しいでした」「うれしいでした」「かなしいでした」たぶん地域的なものだとは思う。

とにかく、一人称が文頭に来てはいけないルール。

それまでの1年生の絵日記では「きょう、ぼくは」と書いていた世界からガラッと変わってしまうので、最初の頃はものすごく混乱したし、どうやって書いたらいいかわからないことの方が多かった。その頃のスパルタ指導?のおかげか、今でもこんな日記とも何とも知れないものを続けている。案外その頃の文体と変わらないのは当時の影響が大きかったのかわたしが成長してないだけなのか。そのどちらもなのか。

あの時大量にあった宅習帳はどこへ行ってしまったのか。今あればデジタル化なり打ち込み化なりして、当時の自分が何考えていたかを残せるのだが皆目見当もつかない。実家は引っ越ししたし、その際にいろいろ処分したと母から聞いたので、その際に一緒に捨ててあるのかもしれない。保存するのには場所を取るから。

そしてナカムラ先生は今どうしているのか。中学か高校の時、一度だけ地元の郵便局でお会いしたけど、そこから先はどうなったのか見当も付かない。同窓会にも行ってないしそもそも呼ばれてないから、その当時の同級生についてもどうなっているのか分からずにいる。こう考えると、過去の関係性というものは非常に曖昧なものだと感じる。確かに自分を形作った期間であるはずなのに。

どうも最近はそういうことばかり考えてしまう。

空が青くて嘘くさい

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朝起きたら、いつも聞こえてくる賑やかな子供たちの声がしない。ああ、本当に本当に休校になったんだな、テレビの出来事は現実なんだなと実感する。

朝から防犯ブザーを引き抜いて鳴らす男子も、グループ登校で騒ぎながらはしゃぎながら登校する女子もいない。保育園・幼稚園に向かう子供と保護者の組み合わせは見かけた。いろいろで大変だと思う。

いつものバスが7分遅れてようやく来る。

朝から胃が痛くて調子がよくないのでコーヒーだけ飲んで出勤したが、コーヒーも胃が荒れるから本来は良くない。でも飲むものがそれしかなかったから仕方がない。朝食を食べるような余力がなかった。

昨夜遅くまで妻と話し込んだのもあって頭は鈍る。早く寝たかったがその後ももやもやが続いたのであまり寝られなかった。

音が欲しいからiPhoneでFreeTEMPOを聞く。好きになったバンド・グループが好きになった時点ですでに活動休止もしくは解散しているのが悲しい。新曲もっと聞きたかったのに。

車窓の景色がどうも非現実ぽく見えて仕方ない。昨日に比べて空が青くて嘘くさい。劇場版『パトレイバー2』で都心が急速に戦時下の体制になったけど、今起きてるのはそれに近いのかもしれない。フィクションと現実の区別がよくわからなくなった。

これがいつまで続くのか、結末がわからない小説を読んでいるようだ。

停滞感と喪失感と虚無感と

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昨日今日とたいしたこともできず、写真もろくに撮れず、こう、変に不満というか暗い感じの気持ちになっている。おそらく自粛ムードとかいうのと関係もあるし、安倍総理の会見を見たのもあるし、これから暮らしはどうなっちまうんだ的不安もある。こいつらが色々複合的に絡んでいる変てこりんな感情。

あ、これはあれだ、季節の変わり目によくこうなるやつだ。鬱ではないが、季節の変わり目はひどく気が重くなる時があって、今がまさにそれなのかなと思う。

こういう時は家にこもって寝るか、自分の好きなことをするか。とにかく職場でもテレビでもTwitterでも余計な話が入ってくるので余計に気が滅入る。落ち着いて考えたいときに酷くノイズがくるようなそんな感覚。あれこれ電源を落として静かに読書するとか、そういうのをやりたいんだけど、生憎しばらく仕事が詰まっている。その現実を思うだけで気が重くなる。

自分の好きなこと、プラモだったりミニ四駆だったり、カメラだったり、最近はラジコンとかも面白いかなあとか、自動二輪の免許欲しいなぁとか、そういうことだけを考えていたいのだが、今はそうもいかないのがちょっと悲しい。第一、趣味に回せる資金も時間も激減してしまっているから、やる気が湧いてこない現実がある。

この、世間の停滞感と抱えてる仕事から来る喪失感と自分自身の虚無感とがリンクしてしまうのはどうしようもない部分が確かにあって受け入れざるを得ないのも理解できるんだけど、それでもやはりどこかで「どうにかなんねえかなこのクソみたいな感じは」というやり場のないモヤモヤがつのってしまう。表面上は取り繕っているけど、ちょっとの変化でバランスが崩れてしまうんじゃないかという怖さみたいなものもある。

朝の通勤中に花が咲いた植物があった。昨日の雨でも散らなかったようだ。こういうの見るとほっとできる分、まだ一応人間らしい。これからしばらく休みとか取れなくなるかもしれないけど、なるべく植物やら何やらを眺めたい。