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写真撮って、日記書いてます。

「その日」が来ることをどれだけ意識できるだろうか

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100日後に死ぬ例の動物を知ったのが死ぬまであと2日の段階で、完全にブームに乗り遅れた格好になった。残り2日でこのワニは死ぬのだ。そして100日目を迎えて結末を見たわけだが、はまり切っていないので「ふーん」程度にしか思わなかった。こういう企画は日々の積み重ねというか、そういうのが割と重要なんじゃないだろうか。終わった後でぼこぼことコラボ企画やら何やらが出てきたのを見たときはちょっとびっくりしたが、嫌儲とかそういうのじゃなく、風情というか読後感というか、まあそういうのをもう少しあってもよかったんじゃないかとは思う。

しかしこの後の漫画家は大変だろう。このようなカウントダウン形式の連載漫画は何やっても「ワニのパクリ」としか言われないんじゃないか。できたとしても数年後か。死ぬオチでなければ結婚とか付き合うとか別れるとかそういう形になるんだろうか。

しかしぱっと考えただけでも死ぬオチよりも変な話だがインパクトが弱い。今回あのワニがあれだけ話題になったのは物語の結末がワニの死そのもので、「どんな死に方か」「本当に完結するのか」という部分が大きかったのではないか。よくわからないけど、これを超える漫画を目指すならアイデアをよく練らないといけない分野だろうなと思う。

この「画面を見ている人は真相すべてを知ってるけど、画面の中の人物たちは何が起きるか(どうなるか)わからない」という、ちょっとのぞき見しているような感じは何が初出だろうか。わたしの場合は『刑事コロンボ』がそのような展開をする物語で最初に知ったものだった。母親がテレビで見ているのを一緒に見た程度だったが、殺人に至る過程もだがコロンボが真相に迫るシーン、しかも直接言わずに「あなたが何かをしたことを、私は知ってるんですよ」と、おわせながら追い込んでいくシーンが、何をやったかを知っているわたしたちですらドキドキしたあの仕掛けは見事だった。

コロンボに出てくる被害者たちもそうだけど、ほんとに数分前まで何食わぬ顔で生きている。殺人系のドラマとか『名探偵コナン』とかフィクションの世界ですらそうだ。いわんや現実をや。

みんな自分が死ぬとは思っていないし、しかし他人の死には興味津々なんだろうなと。まして、ワニは死ぬ日が決まっていたけど、わたしたちは100日後に生きてるかどうかも怪しいわけで。極端な話、この数時間後に突然倒れる、事故にあうてこともあり得るわけだが、実際にそう考えている人は少ないと思う。わたしだってそうだし。結末を期待したまま亡くなった方ももしかしたらいるかもしれない。わたしたちには「その日」が可視化されていないだけ。

ここで典型的な「一日一日を大切に暮らしたいです」とならないのが最近のわたしの悪いところだ。

大切にしたい一日ですらすでに職場と自宅の往復でしかないわけだし、毎日をどうやって回すかを考えてどうにか乗り切ってる。「こんなクソみたいな日早く終わらないかな」とさえ思う時すらある。

結局一日一日を大切にできるのは衣食住足りた上に若干の生活を振り返る余裕があるからできることではないのか。そんな余裕は今のわたしにはない。

そんなわたしにはあと何日あるだろうか。

さて100日後にこのことを話題にしている人はどのくらいいるだろう。とりあえず周りにはいないのは間違いないし、わたしも覚えているかどうかわからない。じゃあワニの死は何だったのか。覚えていれば、生きていればまた考えたい。