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写真撮って、日記書いてます。

写真の中で故人と会う

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iPhone8 Plus

1293日目。仕事の日。

こないだプレゼン関係の資料を作っている時にどうしても必要になり、写真アプリを開いて過去の写真をざーっと眺めていたら、今はもうここにいない人が写っている写真があり、なんかこう、不思議な気持ちになった。他界した祖父母をはじめ、大学院時代の同級生(という表現がいいのか分からないけど、社会人だった人)とか、そういう写真がぱらぱらと出てきた。

なんだろうな、急になんで今頃目の前に出てきたんだろうか。何かしらの意味を考えてしまうのが人間なので考えてみようと思ったが、実際に考えたところで偶然以外の何物でも無いし、写真は写真なのでそれ以上の意味も特にないだろうから…と、そこで思考を止めてしまった。

その時間、だいたい3分くらい。

まあね、もしかしたら意味があったのかもしれないけど、そんなのはわたしには分からない。社会人大学院生だった人については、故人になったという噂しか聞いてないから、もしかしたら違うかもしれない。

そうだったらいいな。

面白いのは母方の祖父母との写真だった。何かね、おそらくわたしが最後に会った時に撮影したであろう写真ばかり出てきたんだけど、お互い変に緊張している感じで写っていて、今振り返ってみるとこのギクシャクさが妙におかしかったりで、自分でも良い写真だなーなんて思ったり。

写真見ながら当時のこと思い出してしまった。

この写真に写った人たちが、もうこの世界にいないなんてなあ…ものすごく不思議でならない。昔はそれこそお盆とか正月に話題に上がる程度だった故人も、もしかしたらこうやって写真を見返すたびに思い出されるようになる、ていうのは感覚的に大きな変化なのかもしれないとふと思う。ご先祖様なんて顔かたち分からないからすごく神秘的だし、信仰の対象みたいなところがあったと思うんだけど、これからはご先祖様といっても顔写真が残るような時代だから、神様仏様ご先祖様というよりは、割とフレンドリーな存在として見ることになるんじゃ無いか。

遺影だけじゃなくて、家族アルバムもあることだし…と思ったけど、アルバムですら捨てられる時代だからな、反対に「写真が無ければ存在も無い」みたいな扱いをされることもあるのだろうか。それは嫌だな…。でも実際、自分の調査などで見てきた中ではそうやって写真を処分して「無かったこと」にする人もいたのは事実だ。この辺、感情と切り離せない部分があるからすげー難しいんだよな。

さて、こういう故人の写真を見ていると、やっぱり何かあるにつけて撮影した方がいいだろうと再認識する。「あの時撮っておくんだった」みたいな後悔をするよりは、うざがられても撮っておいた方がいいと思う。撮りすぎてもアレだけど、ゼロよりかはいいはず。デジタルだから何枚撮っても、記録メディアの容量と物理的寿命の許す限り保存保管できるし。

ただ、問題は物理的な距離も出てきてしまっていることだろうか。自分の家族は近いから撮れる(当たり前だと思っていて撮らないパターンは脱却したい)が、実家/義実家の親とか親戚とか、あるいは友人知人など。地元が遠いとなかなか撮れない。帰った時に撮れればいいけど、友人知人は地元を出ていたり仕事してるから会えなかったり、そもそも連絡先を知らなかったりする。

高校の時に今のようなスマホがあればな…写メケータイあったけどそんなに撮れなかったし。だからなんだ、今の学生諸君は今のうちに写真をたくさん撮って欲しいと思う。すでに高校時代の友人が故人になってるので、つい先輩風吹かしてそういうこと言っちゃうからよろしくないね。

そんなわけで、わたしはこれからも写真を撮り続けるのだろう。なるべく多くの枚数を撮りたい。